スイス名峰めぐり
2010.5.21
スイスはヨーロッパの中央に位置し日本の九州ほどの広さの人口750万人ほどの小国である。 永世中立を宣言し、国土の7割は山岳地帯であるため、その自然風景を活用し早くから観光と 精密機械工業、金融業を中心に経済は保たれ観光客には行き届いた体制を整えている。 公用語はドイツ、フランス、イタリア、ロマンシュの4種語が使われていいる。 |
訪問地
ルツェルン―ベリンツォーナ―サンモリッツ―ベル二ナ・アルプス―ツェルマット
―マッターホルン―シャモニ−―モントル-―インターラーケン―ユングフラウ―
グリンデルワルド―ベルン
スイスは10年程前にルツェルン、ベルン、グリンデルバルト、ツェルマット、ジュネーブと廻ったが、
今回は東南のイタリア国境から南西のフランス国境を越えた南部地域、4大名峰を中心に鉄道を主にした旅である。
中部空港より仁川空港経由のKALによる。 空港に来て見ると、外国機ばかりで日本の飛行機の姿が見えない。
日本航空界もすっかり衰えた感じ。 反面、韓国の勢いは日本の小型化をよそに、まだ747のジャンボ機を使用。
この集客力はハブ空港インチョンの成長を物語っている。 これに引き替え日本は90もの地方空港を造り航空会社は
青息吐息、航空行政の失敗である。 日本は暫く韓国に稼いで貰って日本への観光訪問を期待するしかない。
KALの機内は各座席に液晶画面が付けられ4ヶ国語の選択が可能、映画、音楽、飛行状況が見られる。
掛ける事もないが電話まで付いていて、アテンダントも以前は日本を手本真似ていたのが、コスチュームも
個性的で食事も良くなり、すっかりトップレベルの自信を持ったサービス振りである。 インチョンで乗り継ぎ
ヨーロッパ便はワイドボディー・双発機のスリーセブンのボーイング機、中に入ると、3席3列の座席で、随分
座席の足元が広くなり以前に比べると楽な姿勢が保てリクライニングもよくなった。 この分では10時間を
越えてのフライトも相当楽になるだろう。 最近は10時間を越えると苦しかったが、どうやら楽に行けそう。
あとは飛行機に任せて音楽を聞きながらフライトを楽しむ。 アテンダントが頻繁にサービスに来る。
こちらはカロリーセーブの身、折角のサービスもノーサンキュー!
何時もシベリヤの空が長く感じるが、鬱々しながら難なくチューリッヒに到着した。
座席のせいか、それとも体力がついたのか??
入国手続きも先進観光国だけに旅券のみで他の書類は一切必要なく入国を済まし
シャトルカーに乗り込んで迎へのバスへと乗り換える。
ルツェルン
ホーフ教会 瀕死のライオン彫刻 カペル橋
旅行前の天気予報ではスイスは全体に天気が悪くて覚悟はしていたが、やはり雨だった。
バスでチューリッヒより今夜のホテルのあるルツェルンへと向かう。 ルツェルンはチューリッヒの
西南、ルツェルン湖の湖畔に開けた中世の面影を残す美しい街である。 カペル橋より湖岸通りを
進みツイン・タワーのあるホーフ教会の手前を左手に入った静かな所にホテルはあった。
こじんまりしたホテルで日本の旅行会社の注文かバスルームがピカピカの大理石で
水銀灯が輝き新しく改装されて建物の古さとは馴染まないが、気持ちがよかった。
雨は夜半になると、更にひどくなっていた。
翌朝、食事を済ませ、ガイドに呼ばれて雨の中を氷河公園へと向かう。 公園はホテルの北5分ほどの
処にあり、門を入ると池があり、その奥に大きな岩山がある。 そこに穴が掘られて
背に矢を受けた
瀕死のライオンが彫られ、磨崖佛の様な感じを受けた。 ガイドの話によると、この像はフランス革命の時
ルイ16世を守るために雇われたスイス傭兵786人が王朝諸共全滅したことを偲んで造られた彫刻と言う。
スイスの昔は周囲を大国に囲まれ国も貧しく傭兵を他の国に出し苦しんでいた。 そんなことから
国を興すため、精密産業の育成を行い重装備をした軍を持ち永世中立宣言を行って来たと言う。
氷河公園の後,,ホテルの前を通り湖岸通りへ、ホーフ教会を左手に見て反対方向のカペル橋へ。
車が前まで来て動かない、横切ると思っていたが、運転手が行けのサインをする。
ガイドの話ではスイスの交通ルールは人優先が徹底しているだそうだ。 なるほど〜
10分ほど歩くと左手にカペル橋が見えてくる。 1333年につくられたが1993年火災で焼失、その後
再建された。 カベル橋は屋根の梁には110枚の板絵が取り付けられ、そこにはルツェルンの
守護聖人の生涯が描かれていて橋は世界遺産となっている。
船より望むルツェルンの街 デッキで寛ぐ船客 途中の停船の街
ルツェルン見物の後、船着場よりクルージングとなる。 朝の湖面は実に静かだ。 船は湖面を滑るように動き出す。
湖岸の山々や教会等の建物が夕べからの雨で洗われ鮮やかに写る。 雨も小降りとなり雲も少し切れてきたようだ。
これから約3時間のクルージング、行き着く先は湖の南端都市・フリューレン。 移り変わる景観を眺めながらのんびりと
時間が流れる。 船は湖畔に住む人達の日常の足にもなっていて所々の街で停船して行く。 昼食の時刻となり
船内での食事である。 デッキに出ていた人達も船室に戻って来る。 食事はパスタだった。 スイスでは料理に
期待するなと言われるが、味はよくデザートも洒落たアイスクリームでスイスの十字のマークが入っていた。
湖岸に見えるはノイシュバーン城? 終着、フリューレンの桟橋 フリューレン駅
湖面の爽やかな風に吹かれてのクルージングも終わりを告げ、次はフリューレン駅よりウイリアム・テル特急の展望車で
イタリヤ国境に近いベリンツォーナまで1時間半ほどの鉄路の旅である。 この地方は有名なウイリアム・テルのりんご
伝説の地、スイス独立の口火を切った土地柄でもあり、その地方を走ることからテルに因んで列車名をつけたと言う。
標高200mから高い所は2100mを走る鉄道で峠を貫けるトンネルの前後は登りにループ方式が採用されている。
列車に乗り込むと、先客の外国人がいる。 グーテンターク!と挨拶をすると、「コンニチワ!」と返ってきた。
異国で見知らぬ外国人から聞く日本語、嬉しくなり、何とも平和のよさをしみじみ感する。
展望車は2列と1列の座席で、その間が通路のゆとりのある空間、列車は滑るように動き出し振動もなく静かな
乗り心地に驚かされる。 これぞまさに先進観光国の列車! この地方は山岳地帯で窓の景色は山と渓谷と草原、
高い山には雪がのこり雪解けの滝が流れる。低い山は新緑が映え草原では牛が草を食むと言う絶景に言葉を失う。
列車は山間をうねりながらやがてサン・ゴッタルド峠を越えると標高を下げ、ベリンツォーナを目指し静かに走っていく。
イタリアが近い為か、母音で終わる駅名が多くなって来た。
ベリンツォーナ
明るい展望車内 ベリンツォーナ街 ベリンツォーナの赤い石畳の道
ベリンツォーナはスイスであるがイタリア風の名前である。 昔はミラノ公国の領地であり、その為か街はイタリア語が飛び交い建物もスイス
の雰囲気は少なく、まるでイタリアーノ。 ミラノ公国の要塞都市として開け、交通の要所として発展してきた。 街は石畳が敷かれ
ロマネスク様式の建物もあり市庁舎はアーチ型の回廊を持った中世の風情である。 今は人口1万7千程度のチチーノ州の州都である。
回廊のある市庁舎 城砦 カステル・グランデ 城砦 カステル・グランデ中庭
街から石畳の坂道を登ると岩山と一体となった城壁があり、こちらがミラノ公国が北方からの敵に対し築いたアルプスの城で、
かつては城壁に街は囲まれていた。 11世紀に築造さらた城で二つの塔と中庭があり今は苔も生え往時の面影を残している。
サッソー・コルベーロ城 モンテ・ベッロ城 ユリア峠への道
カステル・グランデの他に山の高いところ燃える新緑の中にモンテ・ベッロ城があり13世紀に造られ、その上には
更にサッソー・コルベーロ城が14世紀に建設されて街を要塞化していた。 現在、城砦は世界遺産に指定されている。
サン・モリッツへ
峠越えのくねった道 ユリア峠(Julier Pass)2284m 同
ベリンツォーナを見て、これよりサンモリッツへ峠越えのバスでの3時間のコース。 緑に覆われた山岳地帯を走り徐々に標高を上げて行く。
至る所で山より雪解けの水が華厳の滝の様に高い所から噴出している。 緑の草原が所々、タンポポで黄色に染められ
その中に農家と教会の尖塔が見えると言った風景でスイスは何処をとっても絵になる景観である。 やがて山々は雪が多くなり
木も少なくなって、どうやら標高が高くなって来たようだ。 間もなくユリア峠である。 この峠はジュリアス・シザーが開いた道路で
アルブラ山脈を越えて中央スイスや中部ヨーロッパへとつながる軍事・交易上重要な動脈で今は国道3号線である。
山の南には広くてなだらかなエンガディーンの谷が広がり乾燥した温和な気候で湖沼や豊かな森林が広がり国立公園
サンモリッツもこちらにある。 やがて峠を越えると唐松の間に湖が見えて来た。 もうサンモリッツである。
湖の西側に廻るとラウディネラ・ホテルがあった。 1800mの高地、シャンパン気候とは行かず、まだ冬の感じだ。
しかし、白銀の山を背景に湖を構えスイスを代表する素晴らしいリゾート地である。
アルブラ山、下にエンガディーンの谷がある サン・モリッツの雪山 ラウディネラ・ホテル
テェックインを済ませを散策、湖に出ると雲が低く山に掛かり明日の天気が心配される。 湖には豊かな水のイン川が流れ込んでいる。
イン川が現地のロマンシュ語ではエンと発音し、それがイン川の谷の地域と言うことからエンガディーンと呼ばれている。
イン川が注ぎ込む傍にロマネスク様式の教会があり、標高が高いだけにシラカバの木なども生えている。
湖では船を出し釣りをしている人達もいた。 湖畔を散歩し街のスーパーを覗く。 わさび入りのポテトチップが
あったので一袋買い込みホテルに戻る。 日本と違って一袋の中身が多く空気が少ない。
商品に対し日本人の感覚とは違う様だ。 味は確かにわさび、ピリリと大人の味だ。
ベルニナ・アルプスへ
サン・モリッツホテル群 ロマネスク様式の教会 日本語の駅名・サンモリッツ駅ホーム
今日はイタリア国境のベルニナ・アルプスへ行く予定だが、天気があまり思わしくない。 サンモリッツ発8時45分のベルニナ急行で
ティラノまで2時間半である。 このレ−ティシュ鉄道は箱根登山鉄道と姉妹提携をしていて箱根登山鉄道は大正時代に
この鉄道を参考に建設された。 サンモリッツ駅には日本語の駅名が掲げられていて何か嬉しい気持ちになる。
このベルニナ線はサンモリッツの1800mからスタートし標高2253mまでレールと車輪で走る鉄道ではヨーロッパの
最高地点を走り最低はチラーノ駅の429mまで下りる。 高度差が1824mある。 途中車窓からは3箇所で氷河が
見られ多数のヘアピンカーブや360度回転するループ橋もあり周辺の環境も含め世界遺産に登録されている。
ベルニナ急行 車窓と対向列車 高地の為、山は雪景色
サンモリッツからヘアピンカーブでカメラマンが何人か三脚を立てて待ち構えている。 ベルニナの谷を登り森林限界へ入る。
この辺りでモルテラッチ氷河が見えるはずが雲で見えない。 ついでロゼック谷を上るがベルニなアルプスは残念かな見ることは出来ない。
昨日の新緑の世界とは打って変わり雪の山々の谷間をキーと軋みを立てて走る。 草原は雪解けが始まり茶色くマダラ模様。
森林限界を行く ディアポレツァ駅 アルプ・グリム駅 日本語の駅名がある
やがて列車はディアポレツァ駅に着く、こちらからベルニナアルプスへのロープウエーが出ている。 更に列車は最高地点のオスピツイオ・ベルニナ駅に着く。
こちらではカンブレナ氷河が見えるところだが姿はなし。 しかし、その氷河の発電用のダム湖でもあるラーゴ・ビアンコが雪の間に薄緑の水面を見せた。
アルプ・グリュム駅では暫く、停車し、パリュー氷河を車窓から見ようとするが、これもガスで見ることが出来なかった。
アルプ・グリュム駅を出てヘアーピンカーブを繰り返し急激に高度を下げて環境も緑の草原と青い山に変わり集落も見えてきた。
雪景色の世界から急激に高度を下げて新緑の世界へと移っていく
牧草地にはタンポポやキンポウゲなどが一面に咲き誇っている。
集落が多くなりブルージオ駅を過ぎたころ最大の見せ場、それは360度の回転をして同じ列車の車両から他の車両を直角に見るという
ローマの水道橋mの様なループ橋である。 列車はループ橋を通って一周し、ループ橋の下を潜る。 そのループの下の草原では
牛がのんびりと草を食んでいるではないか、何たる景観! やがて列車はスイスよりイタリア・チィラーノ駅に到着。
2時間半で冬と春と夏を感じた鉄道であった。 チラーノよりはバスでディアポレツア・ロープウエー駅へと走る。
ロープウエー・ゴンドラ ゴンドラよりの展望 ディアポレッツア展望台 標高2984m
ロープウエーで展望台に上ぼるが、ベルニナ・アルプスはガスの中。 辛うじてピッツ・カンボレナ3603mが見えた。
丁度、食事の時間でもあり展望レストランで昼食をとる。 調子のよいイタリアーノのウエイターが飲み物を注文取りに
来てくれたが、高度のせいか頭がふぃーと? ビールを断ると、何のことかイタリアーノはチ、チ、チ−と言って返った。
ついでチキン料理を運んでくる。 酸素が希薄なのかあまり食欲がない。 食事の後、外に出るが寒いので
早々に引き上げて展望塔の中で晴れ間を待つことにする。 こちらは登山やスキーの基地となり、
眼下に大きなスキー場が拡がり、氷河スキーも楽しめ、今もスキーヤ−が春スキーを楽しんでいる。
帰り際、3時ぎりぎりにピッツ・ベルニナ4049mが、やっと裾を見せた。 これで、よしとしよう〜と。
展望台レストラン ピッツ・カンボレナ3603m ピッツ・ベルニナの裾が見えた
帰りはベルニナ特急で来た道をバスでサンモリッツのホテルへと走る。
ツェルマットへ
サンモリッツ・ドルフ地区 サンモリッツ駅 氷河特急
今日は氷河特急でツェルマットまで一日中鉄道に乗ることになる。 この氷河特急は世界でも有名で人気のあるスイスの観光列車であるが、
”世界で最もゆっくり走る特急”とも言われている。 エンガディンの谷から始まり渓谷や湖、かたや4000m級の山ゃ氷河があるかと思えば
草原ありとツェルマットまで移り変わる景色に乗客を ”より美しく、よりゆったりと、より快適” に導いて呉れると言う。 その間、高架橋や
ループ・トンネル、ループ橋やスイッチバックなど鉄道技術も楽しめるそうだ。 列車に乗り込むと車両はパノラマカーで誰も乗っていない。
我々22名が車両借りきりみたいだ。 座席は通路を挟み2列づつのならび前にテーブルがあって食事が可能になっている。
やがて列車は音もなく動き出し掛かりの人が来てイヤホーンと案内書を呉れる。 案内は6ヶ国語でなされ日本語は6チャンネル
が指定され7〜8は音楽が流れていた。 チャイムが鳴り案内放送が始まる。 外は雪景色山間を縫って高度を下げて行く。
上に先ほど通過した高架橋が見えてかなり蛇行していることが分る。サメダン駅を貫けるとトンネルがあり、その後ループ橋を通る。
この辺りはトンネルと高架橋が多く嶮しい所、やがて見せ場のランドヴァッサー橋を渡る。 高さ60m長さ130mは石の橋脚で支え
上はそそり立った岩壁が繋がり、よくもこんな工事をしたものだ。 サービスのつもりか列車はスピードを落とし、こちらは重心が
すっかり浮き上がってしまう。 雪景色はいつの間にか高度が下がったのか緑の風景に代わり集落や家畜の放牧が見えて
スイスらしい風景がつづく。 トゥージス駅を過ぎ水の豊かなライン川に沿って走る。 お城らしい塔も遠くに見え美しい景観
である。 スイスでは珍しい赤い建物が見える。 どうやらモーテルの建物だ。 この辺りはキャンピングカーのプールがあり
山遊びの客が多いところ。 車窓の建物が増え大きい街であるクール駅に着いた。 クールはスイスで一番古い街で
グラウビユンデンの州都でもありトレンディーなスイス屈指のショッピングの街だ。 ここで借り切の様な我々の
車両にフランス語を話す老人の一団が乗り込んで来た。 誰かが”セボーン”と言うと、
誰かが ”ボンジュールだろ!”と言う。
車内はがやがやと騒々しくなって来た。 先ほどの老人客に早々と食事が運ばれワインを飲み出した。
どうやら後のカラスが先で、こちらは後回しで給仕が食事を運んできた。 一寸ひがんでしまう東洋人?
列車はスイッチバックをして高度を上げて行く。 間もなくスイスのグランドキャニオンと
呼ばれる岩肌むき出しで木のない壮大な渓谷、氷河期に山崩れで出来たそうだ。
つづいてスイス最大のロマンシュ語圏のコミュニティーと言われるディゼンティスに到着。
山の斜面の草原に牛や羊を見ながら列車は高度を上げトンネルを貫けると、あっと言う間に
そこは銀世界、氷河特急の最高地点2033mのオ−バ−アルプ峠、列車はこの峠を越す為に
ラック・レールの歯車の力によて登っている。 峠を越えるとアンデルマット駅に向かって急降下
高度が下がるに従い雪は失せ不思議な様に緑の風景に変わる。 そしてアンデルマットに到着する。
フランス語の老人達は、こちらで降りて行った。 アンデルマットは途中下車の多い駅でアルプスの
十字路とも呼ばれ駅の地下300mにウイリアム・テル急行の走るトンネルが交差して貫けている。
アンデルマットを出て更に高度が下がると氷河特急で通る91本のトンネルのうちで一番長い新カフカ・トンネル
15kmに入る。 列車はうねりながら下がっていく。 この辺りはローヌ川の源流で渓谷の向うには牧草地が
広がりシャレー(貸別荘)なども点在しバックに緑の山が、その後に雪を被った銀嶺が構えると言った春のスイス
の景観が続き、眺めていても飽きることがない。 給仕が食器を引き上げに来てガチャガチャと音を立てる。
どうやら雲が動き出し晴れて来てたようだ。 やはり青空が見えると山々の姿も一変し鮮やかになる。
間もなく高度も600mレベルに落ち、ブリークに到着。 こちらは古くからの商業都市として発展し
ドイツ語圏の中心的存在で、アレッチ氷河へのハイキングの基地でもある。
ブリークを出ると上りに入り、どうやらマッター谷に来た様だ。 ゴーゴーと音を立て水が流れ、
氷河の水が削ったのか絶壁の眺望は迫力がある。 列車は高度を上げセント・ニクラスに
来ると、ゴンドラが見えると言う。 真上に見える山の間をロープウエーが微かに動いて行く。
空が明るくなり、誰かが ”マッターホルンが見えた!” と叫ぶ。 展望車の右手の天井窓に
マッターホルンの角の部分が前山の上に覗く。 見えた、見えたと、皆さん興奮気味。
遂にツェルマットに到着した。 朝9時17分に出て16時52分到着 7時間35分の乗車で
あったが次から次へとアルプスの絶景が展開し疲れを感じさせない。 毎年25万人の
乗客が訪れるのも頷ける。 これぞ究極の鉄道の旅、満足できるものであった。
ツェルマットは1891年までは農業や牧畜で暮らしていた谷間の村であったが、鉄道の
開通で村は一変し観光の街に変えてしまったそうだ。 スイスの鉄道技術と難工事を
成し遂げた粘り強い精神に敬意を表したい。
パノラマ・カー 内部 ツェルマット駅前 エドワード・ウインパー像
駅を出ると前に来た時は自動車が禁止されている為、馬車が沢山いたが、今回は馬車が見えず電気自動車に
代っている。 ホテルは右手マッターホルンに向け通りを進む。 5分ほど歩くと道路右手に銅のレリーフがある。
これはイギリスのエドワード・ウインパーの像で1865年7月14日に初登攀に成功した。 しかし、下山途中北東壁で
4人の仲間を亡くしている。 本職は挿絵画家であるが、彼の著した「アルプス登攀記」は有名。
ツエルマット教会
更に進むと左手に時計塔のある教会があり隣りには綺麗な墓地がある、こちらには落命したアルピニスト達が埋葬されている。
その墓地の横をぬけ川に出ると、何んと、マッターホルンが川の上流に現れた。 みんなカメラを構え、しばし夢中!
朝 夕刻 朝
前に訪れた時は生憎天気に恵まれず見ることが出来なかったが、今回はマッターの神は迎えてくれた。
これで念願の一つがかなった。 明日は、きっと、いい天気になりそうだ。
ホテル・アンタレス ホテル部屋より望む
川に沿って緩やかな坂道を上って行くと、左手に今夜のホテルはあった。 外観はスイス地方独特の木作りでバルコニーを
持った造りで構造はコンクリートであった。 部屋の窓からは右手にマッターホルンが見え願ったり叶ったりである。
かなり合理化されているのか、夜10時から翌朝6時までは管理者がいない為、外に出るときは、
各自の責任で門の戸締りをすることになっている。 夜はラクレット(ジャガイモ料理)で腹ごしらえ。
つづく HOME